※「千葉県文化後援会ニュース2012年春号」から転載しました。
映画「アンダンテ―稲の旋律」の原作者・旭爪あかねさんに、来るべき政治戦の南関東ブロックの比例に志位和夫さんとともに「南関東から日本共産党2人を」と奮闘しているはたの君枝さんをインタビューしていただきました。――編集部
2月には浦安市の液状化問題を調査し、「国が抜本的対策をとる必要がある」とホームページで述べています。旭市の仮設住宅を訪問して「必要なものがありますか」と尋ねると、「お父さん(夫)の履くものがないのでサンダルが欲しい」。あまりにもささやかな願いに胸がつまり、怒りが湧いて、「絶対に国会に行く」と心に誓いました。
父親がレッドパージで会社を馘になり、両親の苦労を見て育ちました。家にテレビもなく、父の語ってくれる民話と母の戦争の体験談に耳を傾ける日々。母方の大おじは、長崎で原爆によって亡くなっています。「水が飲みたい」、その願いをかなえてやっていれば、との悔い。東京大空襲の下を身重で逃げ惑い、あらゆるものを失ったこと。母から聴いた話の数々が、平和を願い、人の痛みを見過ごしにできない、はたのさんの原点を形成しました。
父母の語りは暗闇に絵を浮かばせ、やがて本気で漫画家を志します。萩尾望都さんのSF作品に夢中になり、サインをもらったことも。横浜国立大学教育学部国語科に進学したのも、「漫画のストーリーをつくる勉強のためだった」(!)。通学する新校舎は、設備不足でした。紙にペンで罫を引き「傘立てを置いてください」と署名を集めて学生課に提出したところ、すぐに実現。要求を言葉にし、行動すれば、現実は変わる。その確信を得ます。
学生自治会の運動に参加し18歳で入党しますが、レッドパージのつらい記憶が残る家庭では、「共産党」は禁句。しかし、じつは父も変わらず党に関心を……。
父娘が別々にこっそり『赤旗』を受け取りに来る様子を、地区委員会の人たちは笑って見守ったそうです。お父さんは後年、いきいき党活動をし、娘を応援し、3年前に93歳で亡くなられました。
4年間国語を教えた中学校から、民主青年同盟神奈川県委員会へ。「学校も青年運動も、若い人が育つ現場としては、おなじ道。先生になる人はたくさんいるが、民青の専従になる人はいない」と考えての事でした。夫(『しんぶん赤旗』記者)とはそこで出逢います。
巣立っていった息子と娘の子育てに話が及ぶと、「タイムマシンがあったなら、小さかったときの子どもたちを抱きしめに帰りたい」。はじめての候補者活動中、ひさしぶりに会えた3歳になろうとする下の娘が寄りついてこず、大きなショックを受けました。以来、「どちらかは必ず近くで子を見よう」と夫と話し合い、協力してきたそうです。
暗い湖面の下で必死に水を掻き続けてきた、たおやかな一羽の白鳥。いま、飛翔のとき!
(2012年3月6日(火)、市川市本八幡の岡田幸子県議宅でお会いして 旭爪あかね)